映画『来る』は、家族のもとに現れた謎の存在「あれ」による恐怖を描いたホラー映画です。しかし、本作の恐ろしさは「あれ」だけにあるのでしょうか。物語を紐解いていくと、登場人物たちが抱える欲望や承認欲求、家族の闇が浮かび上がってきます。
この記事では、映画『来る』が怖い本当の理由や「あれ」の正体を徹底考察します。
本記事はネタバレを含みます。未鑑賞の方はご注意ください。
映画『来る』のあらすじ

映画は、秀樹と香奈の結婚生活から始まります。2人の間には娘・知紗が生まれ、秀樹は娘を溺愛する父親として幸せな家庭を築いているように見えました。
しかし、そんな秀樹の周囲で、次第に不可解な出来事が起こり始めます。身の回りで奇妙な現象が続き、やがて秀樹は正体の分からない「あれ」の存在を意識するようになります。
その後、オカルトライターの野崎や霊媒師の真琴と出会ったことで、秀樹の身に起きている出来事が単なる偶然ではないことが明らかになっていきます。
そして「あれ」は秀樹だけでなく、家族にも襲いかかります。家族を守るため、野崎や真琴たちは「あれ」に立ち向かうことになりますが、事態は次第に大きくなり、最終的には全国から多くの霊媒師が集まる大規模な除霊へと発展していきます。
『来る』が怖い本当の理由とは?
映画『来る』は、正体不明の「あれ」によって登場人物たちが追い詰められていくホラー作品です。しかし、本作の恐ろしさは、単純に「あれ」という怪異が怖いからだけではありません。物語を紐解いていくと、怪異と同じくらい恐ろしい「人間の心の闇」が描かれていることに気づきます。
① 正体が分からない「あれ」の恐怖
『来る』に登場する「あれ」は、一般的な幽霊や妖怪とは異なり、その正体や目的がはっきりと説明されません。何者なのか分からないまま、突然人間の前に現れ、徐々に追い詰めていきます。
特に恐ろしいのは、「あれ」がどこにいるのか分からないことです。姿を見せていない場面でも、すぐ近くまで迫っているかもしれないという不安を感じさせます。
さらに「あれ」は、電話の向こうにいる人物になりすますなど、普通の怪異とは違った方法で人間を惑わせます。相手が本物なのか、それとも「あれ」が化けたものなのかさえ分からなくなるため、登場人物だけでなく観客にも強い恐怖を与えます。
このように、『来る』では「あれ」の姿そのものよりも、正体が分からず、いつ襲ってくるのかも予測できないことが恐怖につながっているのです。
② 「あれ」以上に恐ろしい人間の心
一方で、本作で描かれているのは怪異の恐怖だけではありません。物語では、登場人物たちが抱えている欲望や嫉妬、承認欲求など、人間の心の醜さも描かれています。
その象徴ともいえるのが秀樹です。秀樹は「完璧な夫」や「良い父親」であろうとしますが、それは必ずしも家族のためだけではありません。周囲から良く見られたいという気持ちも強く、ブログを通して幸せな家庭を演出しています。
しかし、外から見た「理想の家族」と、加奈が感じている現実には大きなズレがありました。秀樹が家族を大切にしているつもりでも、その思いが必ずしも家族に届いているわけではないのです。
つまり本作の本当の怖さは、「あれ」という未知の存在だけではなく、自分では気づかないうちに誰かを傷つけてしまう人間の心そのものにあるのかもしれません。
秀樹は「良い父親」だったのか?
田原秀樹は、物語の序盤では娘を溺愛し、家族を大切にする「良い父親」として描かれています。しかし、物語が進むにつれて、秀樹が家族に向けていた愛情には、少しずつ違和感が見えてきます。
一見すると理想的な父親に見える秀樹ですが、果たして彼は本当に家族のことを理解し、大切にしていたのでしょうか。ここでは、秀樹の人物像と「あれ」との関係について考察していきます。
① 周囲からは理想的な父親に見える秀樹
秀樹は、妻の加奈と娘の知紗を大切にしている父親として振る舞っています。特に知紗のことを可愛がっており、娘との日常をブログに投稿するなど、家族との幸せな生活を積極的に発信しています。
また、自分自身も「完璧な夫」「イクメン」であろうとしており、周囲から見れば、家族思いの理想的な父親に映っていたでしょう。
しかし、秀樹がブログに投稿しているのは、家族のありのままの姿というよりも、「幸せな家族を築いている自分」の姿でもあります。
家族との生活を他人に見せることによって、「良い父親」であることを証明しようとしているようにも見えるのです。
② 秀樹は「家族を愛する自分」に酔っていた?
秀樹の問題は、家族を愛していなかったことではありません。むしろ、知紗に対する愛情は本物だったと考えられます。
しかし、その愛情には、「家族を大切にしている自分を周囲に認めてもらいたい」という気持ちが混ざっていたのではないでしょうか。
秀樹は「良い夫」「良い父親」という理想像を強く意識しています。そのため、家族が実際に何を望んでいるのかよりも、自分が思い描く「理想の家族」を優先してしまいます。
その結果、加奈との間には大きなすれ違いが生まれてしまいました。
つまり秀樹は、家族そのものを愛する一方で、「家族を愛する自分」という存在にも強く執着していたのではないでしょうか。
この秀樹の姿は、「家族を大切にする」とはどういうことなのかを考えさせます。本当に家族を大切にするのであれば、自分がどう見られるかではなく、家族が何を感じ、何を求めているのかに目を向ける必要があります。
秀樹はその部分を理解できていなかったからこそ、家族との間に埋められない溝が生まれてしまったのかもしれません。
③ 秀樹の死が意味するもの
そんな秀樹を「あれ」が襲い、最終的に命を奪うことになります。
では、なぜ「あれ」は秀樹を狙ったのでしょうか。
「あれ」の正体についてはさまざまな解釈ができますが、秀樹の内面に注目すると、彼が抱えていた恐怖や罪悪感、そして家族に対する歪んだ愛情そのものが「あれ」を引き寄せたとも考えられます。
秀樹は幼い頃から「あれ」に怯えており、自分が連れ去られることを恐れていました。その恐怖は、大人になって家庭を築いた後も消えることはありませんでした。
そして最後には、「あれ」から家族を守ろうとします。
しかし皮肉なことに、秀樹が最後まで守ろうとした「家族」は、彼自身が理想を押しつけることで少しずつ壊れていたものでもあります。
だからこそ秀樹の死は、単なる怪異による犠牲ではなく、「理想の父親でありたい」という秀樹自身の生き方が破綻したことを象徴しているとも考えられます。
秀樹は最後まで家族を守ろうとしました。しかし、それは本当に家族のためだったのか。それとも、最後まで「家族を守る父親」という自分の理想像を守ろうとしていたのか。
この曖昧さこそが、秀樹という人物の恐ろしさであり、『来る』が描く「家族の闇」の一つなのではないでしょうか。
香奈が抱えていた「家族への執着」とは?
香奈は、家族を大切にしているように見える一方で、「幸せな家族であり続けなければならない」という強い思いも抱えていたのではないでしょうか。しかし、その理想が強ければ強いほど、現実との間に生じるズレは香奈自身を苦しめていきます。ここでは、香奈が家族に執着するようになった背景と、「あれ」との関係について考察します。
① 「幸せな母親」を演じる香奈
香奈は、周囲から見ても「幸せな家庭を築いている母親」であろうとしていたように見えます。子どもを大切にし、家族のために尽くす姿は、理想的な母親そのものです。
しかし、その姿には、「母親としてこうあるべき」という自分自身へのプレッシャーもあったのではないでしょうか。
周囲から「良い母親」「幸せな家庭」と認められることで、香奈は自分が母親として正しく生きられていることを確認していたのかもしれません。だからこそ、家族に問題が起きたり、自分の中に負の感情が生まれたりすると、それを認めることができなかったとも考えられます。
つまり香奈にとって家族は、愛する存在であると同時に、「自分が幸せな人間であることを証明するもの」にもなっていたのではないでしょうか。
② 母親としての苦しみ
しかし、現実の子育ては、理想通りにはいきません。
育児によって自由な時間を失ったり、周囲から孤立したり、子どもが自分の思い通りにならなかったりすることで、香奈の中には少しずつストレスや孤独が蓄積していったと考えられます。
それでも香奈は、「母親なのだから子どもを愛さなければならない」「家族を幸せにしなければならない」と、自分の本音を押し込めていたのではないでしょうか。
その結果、「幸せな母親でいたい」という理想と、「母親であることがつらい」という現実のギャップが大きくなっていきます。
家族を失いたくないという気持ちが強いほど、家族に対する不満や苛立ちを抱く自分自身を許せなくなってしまう。その矛盾こそが、香奈の心を追い詰めた原因の一つだったのかもしれません。
③ 香奈と「あれ」の関係
そして、香奈の心に蓄積していた孤独や苦しみに入り込んだ存在として考えられるのが「あれ」です。
「あれ」は、香奈の弱った心につけ込み、彼女が普段は押し殺していた負の感情を引き出したとも考えられます。家族を愛しているはずなのに、苦しい。幸せであるはずなのに、満たされない――。そんな香奈の心の隙間に「あれ」が入り込んだのではないでしょうか。
しかし、すべてを「あれ」のせいにすることもできません。なぜなら、香奈の中にはもともと、家族への愛情と同時に、母親としての苦しさや孤独、理想を維持しなければならないプレッシャーが存在していたからです。
香奈の「家族への執着」は、家族を心から愛していたからこそ生まれたものでもあります。しかし同時に、「幸せな家族」という理想にしがみつくことで、自分自身の苦しみから目を背けていたともいえるでしょう。
「あれ」の正体とは?何者なのかを考察
『来る』に登場する「あれ」は、物語を通して明確な正体が説明される存在ではありません。そのため、単純な悪霊として捉えるだけでなく、登場人物たちの心や作品全体のテーマと結びつけて考えることができます。
「あれ」はなぜ人間を襲うのか。そして、タイトルにもあるようになぜ「あれ」は「来る」のでしょうか。
① 「あれ」は単なる悪霊ではない?
「あれ」は、人間を襲い、死へと追い込む恐ろしい存在です。しかし、単純に「人間を襲う悪霊」と考えるだけでは、本作における「あれ」の意味を十分に説明できません。
「あれ」は、登場人物たちが抱えている弱さや恐怖と深く結びついているように描かれています。特に秀樹や加奈のように、心の中に不安や葛藤を抱えている人物ほど、「あれ」に翻弄されていきます。
また、「あれ」は人間を直接襲うだけではなく、電話で別人になりすますなど、人間の不安や疑念を利用するような行動も見せます。
だからこそ「あれ」は、姿を現していないときでさえ恐ろしい存在として感じられるのではないでしょうか。
② 「あれ」は人間の心の闇を象徴している?
「あれ」をさらに深く考えると、人間が抱えている負の感情そのものを象徴しているとも考えられます。
物語では、秀樹の承認欲求や加奈の苦しみ、家族への執着など、さまざまな人間の感情が描かれています。
人間は誰しも、嫉妬や欲望、憎しみを抱くことがあります。また、「他人から良く見られたい」「幸せだと思われたい」という承認欲求を持つこともあります。
しかし、そうした感情を抱えているからといって、必ずしも本人が自分の心の闇に気づいているとは限りません。
『来る』では、こうした人間の内側にある負の感情が「あれ」という形をとって現れているようにも見えます。
つまり「あれ」は、外から突然やってくる恐ろしい存在である一方で、もともと人間の中に存在していた嫉妬や欲望、憎しみ、家族への執着などを浮かび上がらせる存在なのではないでしょうか。
そう考えると、本作に登場する「あれ」は、単なる敵ではありません。人間が目を背けている心の闇を映し出す、いわば鏡のような存在とも解釈できます。
③ なぜ「あれ」は「来る」のか?
では、なぜ「あれ」は「来る」のでしょうか。
タイトルが単純に「あれがやって来る」という意味だけだとすれば、少し不思議なタイトルにも感じられます。しかし、「あれ」が人間の心の闇と結びついた存在だと考えると、「来る」という言葉にも別の意味が見えてきます。
「あれ」は、何の理由もなく突然現れるのではなく、人間が抱えている恐怖や欲望、執着などをきっかけに、徐々にその存在を強めているようにも捉えられます。
つまり、人間が「あれ」を呼び寄せているのではないかという解釈です。
もちろん、作中で「あれ」が人間の感情によって生み出される存在だと明確に説明されているわけではありません。しかし、登場人物たちの心の問題と「あれ」の襲撃が密接に結びついていることを考えると、そう解釈する余地は十分にあります。
そう考えると、「来る」というタイトルには、単に「あれがやって来る」という意味だけでなく、人間が抱えていた問題や心の闇が、やがて表面化する時が「来る」という意味も込められているのかもしれません。
『来る』は、恐ろしいものが外から「来る」物語であると同時に、人間自身の内側にある恐怖や闇が「来る」物語なのではないでしょうか。
まとめ【映画『来る』が描く人間の闇】
映画『来る』は、「あれ」に襲われる恐怖だけでなく、人間の欲望や承認欲求、家族への執着といった心の闇を描いた作品です。
秀樹の「良い父親でありたい」という思いも、家族を愛する気持ちだけではなく、自分を良く見せたいという欲求につながっていました。そして「あれ」もまた、人間の弱さや負の感情を映し出す存在として見ることができます。
そう考えると、本作で本当に怖いのは「あれ」だけではありません。誰の心にも潜んでいるかもしれない、人間の弱さや醜さこそが、この作品の本当の恐怖なのではないでしょうか。
